1 諏訪下北遺跡
 本遺跡から、ほぼ全域にわたって竪穴住居址が作られ、聚楽が造られていたことが分かりました。 時代は弥生時代中期〜古墳時代後期です。 
この遺跡から竪穴住居址13軒、溝状遺構1条、円墳1基、横穴墳2群14基、土坑1基が発見されています。 その殆どが互いに重複していることからみて、居住地として如何に好適地であったかを伺わせています。
また遺跡の中央部に小支谷の入り込んだ地区では土器捨て場と見られる土器の集中出土地が発見され、夥しい量の廃棄土器が出土しました。 直接住居址にともなって出土した土器は極めて少なかったようです。 
円墳は、形状がやや長めの円形を呈し、南側にブリッチ状の施設を持っています。 規模は周構外縁間で東西19.6mを測り、南北推定21mの円墳と考えられます。 周構はブリッチ上部の両側で最も幅が広く北側に向かうにしたがって幅を狭めています。 断面は南側で底部が広いためにU字形を呈し、北側ではV字形を呈します。 出土遺物は、古墳中心部より直刀片3点が出土しました。 位置的に見て本古墳の副葬品と考えられます。





29 横穴式古墳
 横穴式古墳は、6世紀終わりごろから7世紀代にかけて、集落址の増加と広がりがみられる頃、鶴見川流域の古墳も大きな変質をとげ、埋葬施設として造られました。 この横穴式石室の基本的な構造は、遺体を安置するための墓室である玄室と、そこに至る通路としての羨道からなっています。 そして、その前面にはまつりの場としての空間や墓道が認められることもあります。





19〜26 日吉台古墳
 日吉の慶応日吉キャンパス、およびその周辺に5ヶ所にわたって日吉台1〜5号墳と名付けられた円墳があります。 
1号墳は綱島街道のすぐ東側崖の上にありました。 直径が24mあり、中は2.3mx60cmの範囲に粘土を敷いた部分(粘土槨を簡素化した「粘土床」とよばれるもの)があり、その上に木管を置いたらしく、人歯が2ヶ所残っていたほか、大型の銅鏡2(同じ鋳型から作られたもの)、完全な竹櫛1、短剣1、鉄鏃1、ヒスイの勾玉5を含む1700をこえる玉類(琥珀の勾玉、管玉、ガラス玉、丸玉、ナツメ玉など)が見つかっています。 しかも優秀な遺物が発見され関係者を驚かせました。 これらは一括国宝に指定され、日吉の古代文化の高度の発達が人々の注目をひきました。 
墳丘外表には、新たに円筒埴輪が樹立され、葬送のまつりに使われた土器が認められました。 その中に一片の須恵器が認められており、埴輪の特徴とあわせて円墳の築造年代は5世紀後半代と考えられています。
 熊野神社裏の丘の上に、1号墳と同じ頃に築造された可能性のある3号墳がありました。 3号墳は直径15mの円墳で、幅1m内外の湟をめぐらしていました。 一種の粘土膈槨らしいものがあり、長さ1m、幅15cm内外の、一方の壁らしいものが認められています。 盗掘されていたため副葬品は少ないが、粘土の内側から直刀1を検出され、南西1.50mを隔て鉄鏃の銹着して塊状となったものも発見されています。 墳丘外表には円筒埴輪が樹立されていたといわれます。 日吉付近の古墳はいずれも弥生式竪穴の直上に構築されていますが、この円墳も封土直下の黒土層内に弥生式土器1個が圧砕されて出土しています。 なお本墳は里人によって、中田加賀森守の墳墓と伝えられていますが、封土の頂上に近く殆ど腐朽した木箱に納めた1字1石経が発見されています。 この円墳は運動場にするため削平されてしましました。
 2号墳は3号墳と同じ丘の東端にあり、特に記載がありませんが、円墳の形はよく留めています。 この丘の東側を削平して野球場ができる前に調査したところによると、ここは弥生式竪穴約20個が密集しており、一大聚楽の存在がみとめられています。 竪穴の多くは後期弥生式土器を出土したが、一部には時代のやや新しい土師器を出すものもあり、須恵器も発見され、年代的に見れば複合遺跡です。 
4号墳、5号墳は慶応の寄宿舎のほうにのびた丘にありました。 5号墳からは殆ど何も出なかったようです。





28 加瀬台古墳群
現在の夢見ヶ崎動物園のある加瀬台地の上にあり、夢見ヶ崎古墳群とも呼ばれています。
昭和45年の墳丘調査では、円墳9基が確認されています。その中の第1・5号墳や台地の西端にあった白山古墳第6天古墳は消滅しています。
このうち、第3号墳(現存)は7世紀後半の築造された南方に入り口を持つ横穴式石室墓で、昭和26年の発掘調査で鉄釘・麻織断片・成人男子の骨片などが発掘されています。
了源寺境内の第4号墳(現存)は5世紀後半の築造された円墳で、明治末年に獣身鏡2面と鉄斧が出土されたと云われています。現存の円墳では、最も保存状態が良好です。
第6号墳(現存)は熊野神社脇の浅間塚となっている場所で、大正9年に中国宋時代の鏡、平安時代の鏡・壷などが発見されています。

§第9号古墳の山頂には「夢見ヶ崎史跡」と云う石碑とと小さな祠があります。
長禄3年(1457)に江戸城を築いたことで知られる太田道灌は、多摩丘陵の東端に位置する加瀬山に築城を考えました。ところがある夜飛来した鷲が道灌の兜を奪って飛び去ったという夢を見たため、不吉であると築城を断念したそうです。「夢見ヶ崎」と云う地名はこの縁起によるものと伝えられています。





25 白山古墳(消滅)
既に削られてしまった台地の西側に築造されていた白山古墳は、昭和12年に発掘調査された全長87mの前方後円墳です。 
被葬者を安置する主体部からは鏡類、玉類、鉄器類など多数の副葬品が発掘されています。主体部の後円部に一基の木炭槨(棺のまわりを木炭で囲った埋葬施設)と2基の粘土槨(棺のまわりを粘土で囲った埋葬施設)、前方部に1基の粘土槨が発見されました。
後円部の木炭槨からは、副葬品として、大和朝廷のシンボルである三角縁神獣鏡が納められていました。このことから、被葬者は、4世紀後半、初期の大和政権と強いつながりをもった地方豪族であることが判りました。                
 
* 貝塚
貝塚の多くは、台地の周辺に形成されていることが分かりますが、これは縄文時代前期の「海進」の頃は、現在の鶴見川の流路に沿った沖積層まで海が迫っていたことを裏付けるものです。
参考資料
NPO法人 横浜の自然と歴史を守る会 資料
下田小コミスク主催:下田周辺の歴史を訪ね歩く会 資料
自治会文化部主催:日吉地区の古代遺跡を訪ねて 資料